現のたまきはる

時継 / 兎丼さん

突然の衝撃。
「あ」とも「え」とも形にならない声が、ごぼりという咳とともにナナシの喉奥からもれた。
それを他人事のように耳にした体はすさまじい浮遊感とともに視界がまっさかさまになりーーかと思ったら、めまぐるしく色彩が回転しながら地面が迫った。

警鐘を鳴らす本能が受け身を取ろうとするも間に合わず、落下した体は無様に地面と激突した。

再び、衝撃。
その衝撃は一度目よりも遥かに強く、ナナシは頭の奥で、


ぱん、


と破裂する音を聞いた。
とたん両目はたちまち暗闇に覆われ、意識は遅れて容赦なく遮断される。


その直前。


「──死ぬんじゃねぇ!」


切羽詰まった叱咤が、聞こえた。





「そりゃな、お前は俺が認めた勇者だ。
戦法がちっとばかし力押しなところが玉に傷だが、その単純さゆえにお前は強い」

「だけどな」と言ってから「いつも言ってるだろう、無茶するなって」とため息をしながら愛用の笠で深く下げた のは時継だった。

布団に横たわるナナシは布団の側に腰を下ろす彼へと目線を上げ、居心地悪そうに縮こまるのみ。そんなナナシが身にまとう白衣の下にはしっかりと巻かれた包帯が見え隠れしている。

言うまでもなく、“鬼”討伐の任務で受けた傷だ。
大型の“鬼”の動きを読み違えてしまい、その代償としてナナシは深手を負ってしまったものの、ミタマの力で行使して何とか回復させた。
任務を果たした時にはあふれていた出血の勢いと怪我の痛みは収まっていたので大丈夫だと判断して普段通りに帰ろうとしたが、“鬼”の一撃で吹き飛んだ挙げ句、血だまりをつくって動かなくなったナナシを目撃した仲間たちはそうはいかない。

紅 月は涙目で怒りながら詰め寄り、雷蔵は眉を寄せて口元を固く結んで見つめてきた。

たとえ噂に名高い『今世のムスヒの君』と呼ばれる英雄であっても、ああいった状況には為す術はないだろう。まして仲間たちが心を許したナナシであれば尚更だ。

結局、雷蔵の肩を借りて里まで帰ってきたわけだが、血みどろのカラクリ部隊の隊長を見た里の人々は動転し、上から下への騒ぎとなってしまった。
その騒ぎの余韻が室内にただよっている気がした。
現に枕元にいる看病役の時継がやけに、こう、説教くさいというか……口うるさいからである。


「うるせー、ヒヨッコ!
事が起こる度に肝を冷やす、こっちの身にもなってみやがれ! 少 しは後先を考えろ!」


ナナシの指摘に時継は声を荒げる。 
珍しく強く叱責する彼にナナシは布団の中でたじろぐ。どうやら時継のなかで何かが火をつけたらしい。
もしかしたら、先ほど見舞いに訪れた仲間たちや看病を命じた博士の「こいつをしっかり説教しろ」という言いつけに応えようとしているかもしれない……困った。

「困った、じゃねえよ!
まったくお前はいつもいつも! “鬼”を見かけたら大型でも突っ込んでいくわ、行動限界ギリギリまで粘るわ、いい加減配慮を持て配慮を!」


「そうじゃねえと」と言ったところで。


「……」


時継はピタリと黙った。
本当の人形になってしまっ たように。

沈黙が降りる。
不思議に思ったナナシだったが、口ごもるような彼の唸り声が聞こえた。
含みのある声色だった。このまま黙って時継の言葉を待とう。そう決めたナナシは開きかけた口をつぐむ。

時継とナナシの間に静けさが満ちる。
里の大通りに接している自宅の壁越しに人々の活気と騒音が伝わり、開け放たれた出入り口や戸の格子から差し込む白い陽射しは室内の空気すら蒸し暑くさせていた。しかし外から吹きつける風のおかげで過ごしやすい。

ありふれた生の営みが潮のように遠ざかっては押し寄せるなか、ナナシはただ青い燐光を放つ鋼鉄の顔を見上げた。かすかに届く音を聞き分けるように。

やがて時継は顔をうつむかせた。そして両手の指を組み合わせて、


「……死んじまうんだぞ、ナナシ


と言った。

ナナシは一瞬言葉を失う。
ひとつは時継の声があまりにも悲痛さを帯びて震えていたことであり、もうひとつはあることを思い出したからだ。そこでナナシはようやく気絶する直前に耳にした声を思い出し、時継の震えを理解した。

どうして、もっと早く思い至らなかったのか。
あの時ーー紅月は涙目で怒りながら詰め寄り、雷蔵は眉を寄せて口元を固く結んで見つめてきた時、時継は二人の背後で顔を向けるだけだった。


声も上げず、影法師のように佇んで。

「 死ぬな」という絶叫ーーその根底を知っているのに、二人の対応ばかりに集中してしまった。


絶叫の根底、鋼を震えさせるもの、痛切な音。
それらはたった一人に繋がっている……マホロバの里の前・お頭、西歌というひとに。


鬼内と外様の共存を試みたモノノフ、紅月の師匠、雷蔵と時継の友人、そしてーー故人。記憶石と話でしか分からないひと。


……どうして、もっと早く思い至らなかったのか。
ナナシナナシの仲間達もそうであるように誰しも抱えていた痛みを緩和できれば、前へ進むことができる。
けれど心はかたちがなく、心の傷もかたちがない。その傷はいつまでも同じところで留まり、ふとした瞬間に手を当てれば透 き通った血があふれ出す。ナナシが結局『誰』なのか分からないことに対して空しくなる時があるように。


そして思う。

時継に言わせるまで気付かなかったのは自分の心持ちのせいかもしれない。

記憶を失くした自分は人よりも多くの事柄が欠落しており、なかでも死に関して不確かなところがあるからだろう。


何故なら横浜防衛線の記憶を始まりとするナナシにとって、時継に刻まれた傷ーー死は当たり前だった。
気が違ったように燃える街。そこかしこに満ちる死臭。最期の力を振り絞って懇願した人間だったモノ……けれど椿の父・主計が死んだ時、ナナシはその死を理解できなかった。


『どう して主計さんは寝ているんだろう?』。

真鶴が端正な顔を歪ませて目をそらし、椿が膝を崩して泣いていたというのに……二人のかたわらで首を傾げるばかりだった。


そんなふうに主計の死を理解できなかったナナシだったが、“鬼”に襲撃された外様の人々を助けているうちに気付かされるーー『ああ、そうか。私は“親しい人の死”を知らなかった』。

親しい人々、それは始まりの記憶に「いる」と言えばいた。
武器を持った仲間。声で支援してくれた女性。あんな状況下にも関わらず、人命救助を許したひと。

けれど同時に全ては遠かった。
武器を持った仲間達は炎の海に呑まれて影すらなく、支援してくれた女性の声 は聞こえず、最後に目にしたひともまた雲の上のような存在になってしまった。

だからナナシは主計が死ぬまで、親しい人の死を知らなかった。
そしてその死であっても……ナナシを震えさせるには至っていない。

確かに主計の死を理解した時は悲しかったし、今でも無性に切なくなる。
しかし時継や椿、刀也に八雲、紅月、グウェンーーそして識を追い込ませた、鮮烈な死ではなかった。


さらに言えば。

自身の死に関しても危機意識が薄いと自覚している。


おかしなたとえだが、ナナシは自分のことを『武器』だと思っている。
だからこそボロボロになっても平気で戦えるし、自分の命を危険に差 し出すようなことも平然と行える。戦いの中で砕けるのなら本望だと心の何処かで断言する声があるからだ。

死線をさまようことを良しとする、その主は十年前の特務隊の己か。
それとも空間転移の実験体だったという自分か。はたまた、それ以前の『誰』かであった私か。こればかりは記憶が戻らない限り、定かにはならないだろう。


いずれにせよ。

歪んでいると思う。ズレていると思う。

それでも。

そんな自分でも分かっていることは、ある。


ナナシは時継の両手に片手を伸ばし、その手を触れた。
鋼鉄の指の冷たさと硬質さが指と手のひらに感じる。鋼鉄の指は小さく小さく 震えていた。墓地で泣いた大声とは反対の泣き方をしているように。

ぎゅっとナナシの手は鋼鉄の指を握る。
確かに今回の任務で死にかけたかもしれない。実際に衝撃で破裂してしまった脇腹は痛かった。けれど完治とは言い難くとも任務中はミタマのおかげで大分良かったし……上手く説明できないが、ナナシは死に慣れていると自負している。

つまり、これでも無理の加減を知っているのだ。
それに本当に無理だったら仲間達を頼りにしているし、思う存分休むことも心掛けている。
それでも目に余るようだったら、殴っても良い、どうか自分を引き戻してほしい。


誰かを悲しませたり怒らせたりーー待たせたりしたまま死ぬなんてこと、 したくないから。


時継は黙ってナナシの話を聞き、しばらく何も言わなかった。
じっとナナシが握る自分の手を見つめると、ゆっくりと握り返して。


「……へっ、いいぜ。約束してやるよ。
とんでもねぇ“鬼”とまた対決することになっても、俺が必ずお前を生かしてやる。
だからナナシ。お前は死ぬな、生き続けろ、いいな? できるな? 勝手にいなくなるんじゃねぇぞ?」


と言い聞かせるような口調で尋ねた。
即座にナナシはうなずく。その動作を見た時継が「よし!」と明るい声で首を縦に振る姿を目にし、ナナシは安心してニコリと笑った。

時継も笑った。
表情はなくとも笑ってくれた。笑える ほど元気になってくれたことが嬉しくて、ナナシはますます笑みを深める。



それは強い風が吹く、とても騒々しい一日の午後の出来事であった。